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散歩で「藤田嗣治展」へ

 今日は朝から晴天でお出かけ日和だった。晩秋の今の時期は散歩に最適であるから、こういう天気の日に家にいて仕事をする気にならない。となれば、早く出かけるに越したことはない。まして昨日からある行き先を思いついていたからなおさらである。行き先がちょっと遠い場合は、バスを利用するが、歩く距離を長めにとることにより、散歩の要素を加味することができる。最近はこの形の「散歩」が増えている。
 没後50年の藤田嗣治展を見に行くことにしたのである。8時20分に家を出て下鴨中通りを北大路まで歩き、府立大学前から市バス206番に乗った。東山仁王門で下車し、少し戻って左側に疎水を見ながら仁王門通りを東へ歩き、9時過ぎに京都国立近代美術館に着いた。開館時間の9時半まで少し時間があったが、すでに入場を待つ人の列ができていた。小生は1,500円の当日券を買って入場を待つ人の列に並んだ。
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 予想したほど混雑しておらず、9時半にすぐに入場することができ、2階の展示室を順路に従ってゆっくり見ていった。そこには、自画像や軍医だった父親の肖像画など、美術学校時代の作品が並べられていた。
 その後パリに渡って、セーヌ川左岸のモンパルナスに居を構え、ピカソやリベラやモディリアーニらと交流した駆け出しの頃の風景画は、これまで見たことがなかった。それらはどれもパリの場末の秋か冬の風景で、黒っぽい服を着た老婆と思われる人物が小さく描かれていて、作者の当時の孤独感を感じさせた。
 エコール・ド・パリの寵児として活躍した時代の「乳白色の下地」による裸婦像は、藤田の代表作と見なされる作品群であり、流石に見応えがあった。コピーでしか見たことがなかった「寝室の裸婦キキ」や「タピスリーの裸婦」の実物を見て、色も線も美しいと思った。
 1930年代、南米に滞在した後、日本に帰国し、いわゆる戦争画を描いたのだった。有名な「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」の2つの大作が並べられていた。これらが戦争の悲惨さを描いた作品として、それなりに高い評価を受けているようだが、小生には「悲惨さ」も極端な「暗さ」もあまり現実的なものとは感じられなかった。
 戦後、藤田は米国のニューヨークを経由してフランスに戻り、ランスに住み、礼拝堂を作り、カトリックの信仰を深め、独特の宗教画を多く描いた。芸術作品として見た場合には、どういう評価になるのか分からないが、死の直前まで勢力的に絵を描き続けたのは見事と言う他ない。天性の表現者だったのだろう。4階の展示も見て回り、見終わったのは11時過ぎだった。
 美術館を退出し、仁王門通りを河原町まで歩いた。とくに東大路から西は道が細くなるから通ったことがなく、一度歩いて見たかった。古い京都の家屋が建ち並んでいて、ところどころに比較的大きいお寺があった。また、有名店なのだろうか、「うね乃」といううどん店の前には行列ができていた。川端通りから二条通りを通って河原町通りに出て、市バス4番に乗って帰った。
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 小生が大学生の頃まで日本で藤田嗣治の名はあまり知られていなかった。おそらく晩年の藤田は、日本の画壇やその取り巻きの批評家たちとあまりよい関係ではなかったのだろう。第二次世界大戦中に描いた戦争画が戦後に批判され、彼は責任追及から逃れるようにして日本を去った。フランスに移り住んで国籍まで変えたことを当時どれだけの日本人が知っていただろうか。
 小生が、藤田の名を知ったのは、学生時代に京大の近くの関西日仏学館へフランス語の講習に通うようになってからである。その建物の中に庭に面してル・フジタというフランス料理のレストランがあって、壁に大作ノルマンディーがかかっていた。その店は、比較的リーズナブルな価格で本格的なフランス料理を食べられるという評判でファンが多かった。店の女主人がよくしゃべる人で、客に藤田の名を広めようとしていた。そこで吹き込まれた知識が小生の中で少しずつ関心に変わり、彼の作品を見る機会が増えていったように思う。
 小生は藤田の絵が特別好きというわけではないが、西欧の近代絵画の世界で名前が知られたただ1人の日本人として、また、戦争に翻弄されながらも個性的な創作を終生続けた類い希な画家として気になる存在だったことは確かだ。今回の大規模な回顧展を見て、少しは彼の考え方や感じ方が分かったような気がした。音楽の世界でも同じようなことが言えると思うが、西洋から遠く離れた日本で西洋絵画を学び、その本場で修行して、西洋人に認められること、そのことは称賛されるべきことなのだけれど、それを日本人である自分の深い内面というか心の襞とどのように一致させるかは、芸術家にとって深刻な問題である。藤田は一生をかけてその問題と格闘したのだと思う。



by t0hori | 2018-11-18 23:25 | 日誌 | Comments(0)  

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