この前のブログで予告した通り、13日(水)朝、京都駅9時11分発サンダーバード9号に乗車して能登への旅に出発した。 16日(土)に北陸新幹線が延伸されると、直通のサンダーバードで金沢まで行けなくなる。また、震災復興支援の北陸応援割りが始まると大勢の観光客が押し寄せる。小生の場合は、観光が目的ではないので、それまでに行っておきたかった。金沢駅から能登行きの特急かがり火3号に乗り替えて、ほぼ定刻通り12時25分に和倉温泉駅(下の写真)に着いた。発着するホームは2つあるのだが、地震による損傷のために1つしか使えず、降車の際、段差に注意が必要だった。駅の周囲を見渡した限りでは、大きく壊れたり傾いたりした家は見当たらなかった。
改札を出たところにT子さんが待っていてくれた。60年会っていないのに、顔を見た瞬間にその人だと分かった。彼女の車のところへ行き、助手席に乗せてもらって彼女の自宅へ向かった。能登島大橋を渡ってから3カ所で道路工事のために一方通行になっていた。そのうち1カ所では、海側の車線が崖崩れを起こして削られていた。海岸を離れて能登島町を縦貫する道路はさほど傷んでいなかったが、白い建物のコミュニティーセンターには、まだ水が来ていないとのことだった。向田の郵便局を過ぎて数分でT子さんの自宅前に着いた。
家に上がり、暖房の効いた居間に入ると、ご主人がテレビを見てくつろいでおられた。挨拶してから、隣の食堂へ案内され、T子さんの手料理をいただいた。鮭と大根とお揚げの味噌汁、刻んだ玉葱をまぶした鰺のたたき、鰈の煮付け、高野豆腐、糸ごんにゃく、きんぴら牛蒡、胡瓜の浅漬け、そして、炊きたての白飯。地元の食材を使った料理はどれもとびきり美味しくて、T子さんの心遣いに頭が下がる思いだった。
居間に戻り、3人で話をした。T子さんによると、この家は40年前に大工であるご主人と仲間の方たちによって建てられた、1月の大地震でも殆どどこも壊れなかった、神棚の燭台などが床に落ちたが、不思議なことに何も割れたり壊れたりしなかったとのこと。
T子さんには、小生が幼稚園に行く前にわが家に来ていただき、医師として働いていた母を扶けて家事をしていただいた。そのT子さんから、当時の両親の言動について話を聴くことができた。小生は覚えていないが、高野豆腐を嫌っていたらしい。それを見た父は、好き嫌いをなくさせるために、T子さんに繰り返し高野豆腐をおかずに加えるようにお願いしたらしい。小生は、母からT子さんが働き者だと聞かされていたので、そう伝えると、母については誰に対しても優しい人だったと言われた。
ひととおり話が済んでから、今は空き家となっているT子さんの実家まで歩いていって、中を見せてもらった。豆入りの切り餅が天井から紐で吊られ干されていた。T子さんが自分で作って出荷しているそうである。車に乗り、向田のガラス美術館へ行った。大きく近代的な建物で入館したかったが、震災のために閉鎖されていた。車の窓から見た裏の工房の中では、職人たちがガラス細工の仕事をしているようだった。その後、さきほど通った広い道に出て、能登島大橋を渡り、2時半に和倉温泉駅まで送ってもらって、そこでT子さんと別れた。
駅の発券機で、金沢までの自由席特急券と乗車券を買い、2番ホームから3時19分発のかがり火8号に乗車し、4時半に金沢駅に着いた。車内案内にしたがって、7番ホームに移動し、4時43分発泊行き普通に乗車した。これは、JRから分離した「あいの風」という第三セクターの鉄道だった。5時23分に高岡駅に着いて、駅近くのビジネスホテルにチェックインした。大学の同級生で繁久寺住職の松井君が6時にホテルのロビーまで迎えに来てくれた。二人で歩いて駅の反対側へ移動し、アーケードのある商店街のようなところを通ったが、殆どの店は閉まっていた。松井君によると、新高岡駅の南に大きなイオンモールが出来て以来、こちらの市街地はさびれているとのことだった。商店街から右手の道に入って、和食処 鍋茶屋へという店に入った。
松井君が奥の個室を予約してくれていた。ビールで乾杯してから、熱燗を注文し、海産物をふんだんにつかったおまかせ料理をいただいた。蛍いかなどの突き出し、造り盛り合わせ、ずわい蟹、鰤の照焼、ナマコ酢漬け、まぐろのとろろかけ、そして最後はのりまきおにぎりだった。楽しい食事会だった。お互いの近況、同級生の消息、大台ヶ原、京都北山、若狭越えなどの山登りの思い出を語り合った。彼が住職を務める繁久寺について尋ねると、地震で土塀が崩れたが、自費で修復していると話した。また、禅宗の曹洞宗と臨済宗の違い、曹洞宗に永平寺派と總持寺派があること、彼自身の得度と寺の経営など興味深い話を聞くことができた。
翌日、1人で高岡と金沢の市内を足早に見て回って夕方に京都へ帰った。わが家の恩人と旧友に再会できたことが嬉しかった。能登と高岡はどちらも地震の被災地であるだけでなく、過疎と高齢化が進んでいた。京都の土産とわずかなお見舞いしか手渡すことができなかったけれど、被災した二人を応援したいという気持ちだけは伝えたつもりである。両地域の復興とそこに住む人々のしあわせを願わずにいられない。